updated on March 26th, 2000
みなさん、高校時代「丸刈り」の早田です。 私の現在までの歩みを紹介します。読んでやって下さい。
昭和58年3月豊岡高校音楽部を卒業しまして、 岩手大学農学部へ行くことになりました。 大学でも合唱団に入ることになりました。 当時の岩大合唱団はコンクール全国大会で入賞することもあったのです。 私はあんまりコンクールには興味がありませんでしたが、 「すごいな〜」と思っておりました。
コンクールよりも印象に残ったのは、夏休み前半に行う「演奏旅行」です。 岩手県内の小さな小さな小学校や施設をまわるのです。 合唱なんか聴いたことのない生徒達に「生演奏」を聴いてもらうのです。 ステージの最後には歌っているこちらが感動し、 目頭が熱くなることもしばしばでした。
私たちの学年は人数が少ないので、3年生の時には、なっなんと 私が合唱団の団長(委員長)になってしましました。 よく働く役員に支えられて、何とかやっておりました。 あんまり稼ぎが良くないので「どうでもいいんちょう」と言われ、 自他ともに認めておりました。
そのころ、ご指導を頂いたテノールの佐々木正利先生は Bach(J.S.)のエバンゲリスト(福音史家)としてドイツでも有名な方です。 本当にすばらしい声ですよ。 共演していただいた鈴木雅明先生はBCJ(バッハコレギウムジャパン)の 音楽監督・指揮者です。現在も素晴らしいBachを聴かせていただいています。 佐々木先生にはよく飲みに連れて行かれました。 芸大やドイツ、音楽の話を聞きましたね〜楽しかったです。 当時の下宿は1か月で1万円、6畳一間でお風呂無し。 貧乏学生で「神田川」の世界を行くようでしたよ。
日曜日は「ニチイ」の魚屋でアルバイトでした。 5500円の日給は貴重な食費になりました。
大学4年を終え、大学院に残りましたが、大した研究成果は出ません。 私のテーマは 「生理活性物質ビカベリンの生合成経路に関する基礎的研究」です。 アイソトープ(放射性同位元素)を用いての実験では、ちと 緊張しました。
その後、研究の道はギブアップ。教師の道へ。 ところが、兵庫県の教員試験が不合格、無念、、、、、 臨時講師として、兵庫県立生野高校へ行きました。 「教えることは難しい〜」と痛感しながら過ごしました。 次には何故かまたまた岩手県に逆戻りし、 盛岡一高の分校(一本木;青年の家の近く)に。 この高校は石川啄木や宮沢賢治の母校です。 校歌が「軍艦マーチ」と同じメロディーでびっくりしました。 本当の話です。
次に宮城の登米高校に3年、 次に岩手の水沢農業高校に2年、 ここでは牛の世話やら乳搾り等、いろんなことをしましたぜ。
次に地元兵庫の豊岡聾学校に4年、 聴覚障害児や知的障害児とふれあいました。 可愛い子供達です。 毎年夏休み前に豊岡高校音楽部を夏祭りに招待し、 演奏していただいています。 私が言い出しっぺなのです。子供達は大喜びです。 是非是非今後も続けていって欲しいものです。
そして、平成11年4月から再び普通高校へ戻り、 ここ兵庫の生野高校に1年目です。 学習指導や生徒指導を一から学ばなくてはなりません。 大変忙しい1年でした。
今は、嫁さんとちび(3歳)と兵庫の和田山のアパートで おとなしく暮らしています。 合唱は休んでいますが、大好きなリヒターのBachを何度も聴いています。
さて最後に、お知らせをば。 恒例の音楽部のOB会(新年会:1月2日)は今後も続けましょう。 それからお盆にも集まりたいものですね〜 みなさん、いかがですか〜? 新年会常任幹事の早田でした。
Who's next? ようやく第4回までたどり着きました。 実は、次回は誰が順番か忘れてしまいました。誰にお願いしようかな? 早めに第5回となるように頑張ります!