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updated on October 24th, 2000


第6回 島本富貴夫さん(44期)

44期OB(平成4年卒)でBassにいました島本といいます。

高校に入るまでは山城組や、ブルガリアンボイスといったマイナーな合唱には興味はあったものの、 普通の合唱にはさほど興味がなかったのですが、 高1の時、関西合唱コンクールで聴いた加悦谷高校さんの演奏や、 高3の時、1,2年生の女子が代表になった全日本合唱コンクールで聴いた、 安積女子高校さんの演奏にすごい衝撃をうけたらしく、 卒業してからもいちおうずっと合唱を続けています。 近況といってもそんなに書くことがないので、高校を卒業をしてからのことを書きます。

大学の話。 センター試験の結果が芳しくなく、 担任から沖縄か北海道の端しか受かるところはないといわれ、 寒さに弱いのと合唱部があるということで琉球大学に行きました。 ところがはいってみると合唱部は廃部になっていて、かなり落ち込みました。 しかたがなく琉球大学フィルハーモニー管弦楽団という団体に入り、 バイオリンの練習を始めました。 高校の時、オケに対して理由もなく敵対心みたいなのをもってて、 まさか自分がこんな団体に入るとは思いませんでしが、 入部してみると団員が多く(70名くらい)、熱心な人も多かったので楽しかったです。 雰囲気はよかったのですが、私が大学でやりたかったのは合唱で、 この人数で合唱をやると楽しいだろうなと考えると切なかったです。

大学に入学して2ヶ月目に入ったころ、医学部の友人から医学部に合唱部があると聴き、 さっそく練習場を訪ねていきました。 練習にいってみると、10名くらいで源田俊一郎編曲の「ふるさとの四季」を練習されてました。 高校の部活のような、集中力のある練習ではありませんでしが、 何名かはすごくうまい人がいました。 クェーサーに入ってた人。熊本第一、同志社グリーの卒業生。 あとすこしで全国大会に出られた人。 すぐに入部し、夏休みに入った頃、フィルの方はやめました。

琉球大学医学部混声合唱団はどんな活動をしていますかといいますと、 病院で年に1,2回おこなう「ほのほのコンサート」と秋にある「献体慰霊祭」を活動の中心にしてます。 「ほのほのコンサート」は入院されている患者さんの前で病院の受付のロビーで行うコンサートで、 普通のホールで単独演奏会をもたなかったので、実質定期演奏会のようなものでした。 患者さんのことを考慮して時間は1時間程度、会場が病院のロビーということで、 ピアノも自分たちで音楽室から運ばなければならず、会場づくりも大変です。 はじめてこのコンサートに出演したとき、 会場や時間から、しょぼいステージを想像して乗り気でなかったのですが、 コンサートでは患者さんが間近にすごく一生懸命聴いてくれて、 高校の時感じたことがないくらいの感動を感じました。 「ふるさとの四季」の最後の「ふるさと」の2番をアカペラで歌うところ、かなり目頭が熱かった。 ほのほのコンサートではやりたい曲はほとんどできませんでしたが、いい思い出です。

「献体慰霊祭」ではフォーレのレクイエムをやりました。 曲を替えようという意見もあったんですが、結局毎年ちょっとずつ抜粋する曲を入れ替えて、 「Sanctus」以外は全部やったと思います (結局「Sanctus」も、 大学4年の時フォーレのレクイエムを全曲演奏する演奏会に個人的に助っ人でよばれたので演奏しました)。 4年間もフォーレのレクイエムをやったので今でもほとんど暗譜で歌えると思います。 「Libera me」がお気に入りで車を運転しながら大声で歌うのがすき。 琉球大学医学部混声合唱団の活動はだいたい4年間こんな感じで、 人数的には私が2年の時12名だったのが最小で、 4年の冬が最大で40名くらいいました。 医学部とは何の関係もない那覇高校のOBに助っ人で出てもらったり、 演奏会前に医学部生に声をかけて出てもらったり、かなり自由な雰囲気でした。

医学部混声合唱団は週2回の練習で夏、冬、春休みは活動しないため、 自由な時間がたくさんあったので、合唱団フォンターナ「ぎのわん」という一般の団体に入ってました。 年齢層の幅広い団体でいろいろと刺激になりました。 また、沖縄で男で合唱をやってるのはあまり多くはないので、 よくオペラの合唱とかの助っ人の依頼がきて退屈しなかったです。

大学に入る前は沖縄という土地がかなり不安だったのですが、 言葉、食べ物、気候にすぐ慣れ、というかすっかり適応してしまい、 よかったです。 むしろ内地に帰ってからは反動で、関西弁が怖かったり、 冬の洗い物がつらかったり、適応しなおすのが大変でした。 沖縄を出るとき、かなりつらかったのは、沖縄料理が食べられなくなること。 今はゴーヤ(苦瓜)を市場で探して、自分でゴーヤーちゃんぷるーを作ったり、 大正区まで出かけていって沖縄そばをたべたりしてしのいでいます。 最近びっくりしたのは「伊藤ハム」が「ミミガー(豚の耳)」の薫製をだしてること。 見つけたら、必ず買っています。

大学卒業後、無事に就職が決まり、大学卒業後からずっと神戸にいます。 職場の同期が北須磨高校出身で、もしやと思って聞いてみたら合唱部出身ということがわかり、 すぐOBの合唱団を紹介してもらい入団しました。 合唱団アムサティークという加古川西高校と北須磨高校の卒業生が中心になって作った団体で、 指導は現在北須磨高校に勤務されてる足立先生と、 以前北須磨高校と加古川西高校に勤務されてた川邊先生がされてます。 今年で結成11年目で(たしか)演奏会は震災の年以外は毎年行っているので、 次で10回目になります。 平均年齢は若く?てたぶん30いってない(#はず)。 人数は練習の時20人くらい、演奏会で30人くらいになります。

川邊先生が故平吉毅州先生と大学時代から交流があったということで、 平吉先生の作品を演奏する機会が多いです。 昨年(2000年)兵庫県高校総合文化祭で合同演奏された 「お母さんの目玉」は合唱団アムサティークの委嘱作品です。 興味のある方は アムサティークのホームページ をご覧ください。 高校の時はかなり北須磨高校を意識していたので、 まさか自分が卒業生の団体に入るとはおもいませんでした。 コンクールに出ていないので実力はどんなものか客観的にはわからないのですが、 私的にはヒーヒーいってやっとついていってる状態です。 しんどいけど楽しいです。

最近はいってないのですが、内地に帰ってきてからセイティブの方にも顔をだしてました。 内地に帰ってすぐの6月に演奏会があって、 新実徳英の「生きる」「花に寄せて」や高田三郎の「姫」をやると聞いて、 すぐに参加を決め、 土曜日に帰省して月曜の早朝に神戸に帰るという、 今からは考えられないような事をやっていました。 いまではとてもできません。 その後も何回かコンクールだけ参加したりということをやってました。 最近は歳のせいか帰省がしんどくなったのとアムサティークに専念しようと思って、いってません。

内地に帰ってきてよかったのは合唱の演奏会がたくさんあること。 演奏会シーズンになると観に行く演奏会をえらんでます。 とても沖縄では考えられなかったことです(沖縄ではどんな演奏会でも行ってました)。 あと電車でどこでもいけること。 飛行機を使わなくても地方大会が聴けますし、全日本合唱コンクールも聴きにいきやすいです。

現在、 この原稿が公開される頃には終わってるかもしれませんが(大丈夫です(編集部(^_^)))、 現在は平成13年3月11日にあるアムサティークの演奏会に向けてがんばってます。 なかなか技術は向上しませんが、それが合唱のおもしろさかなと思ってます。

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またしても半年ぶりの更新となりました。 ようやく第6回ですね。 次はどなたの番でしょうか。 気長におまちください。

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Kamimura Masatsugu in Akashi city, Hyogo, (C)Kamimura 1999,2000
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