昨日に引き続き、合宿の二日目。
ラターのマニフィカートより残りの曲の譜読みを行う。
ラターの曲の特徴としては、とにかくノリノリで歌えるということだろうか。
外国の宗教曲というと、どことなく難しそうで、とっつきにくい印象があるだろうが、
ラターのものは「まるでどこかで聴いた映画音楽みたい」なのである。
まじめに楽曲の分析をすると、結構難解な転調をしているのだが、
それを感じさせないほどわかりやすいというのは、
ラターの曲が広まっている理由のひとつかもしれない。
4月の演奏会でどのようにお聞かせできるか、歌う方としても楽しみな曲である。
会社の帰りに書店によって色々物色する。
朝日文庫のコーナーで、團伊玖磨のエッセイ「パイプのけむり」が目に留まった。
高校生の頃に13巻まで読んで、文庫がそれ以降なかなか発行されないまま、
続きを読む機会を失っていたのである。
あれから15年以上の時が過ぎているのに、つい最近のような気がしながら、
その後発行されたのを手に取ってみる。
今は20巻を越えて発行されているようで、続きを読むことにする。
まずは14巻を買い求めた。
気が向いたら感想文を書くかもしれない(^_^)。
一緒に仕事をしている人の都合で、夕方からの打ち合せが設定された。
開発規模の大きなソフトの開発ではよくある話である(^_^;;)。
ひととおりの確認作業を終えると、時間は21時を過ぎている。
これもよくある話(^_^;;)(^_^;;)。
まあ、仕事がないほど不景気な時代としては、とっても幸せなことだろうか(^_^;;)。
寒いときは湯豆腐を食べることが多くなる。
今晩のメニューも実はそうなのだが……。
ところで、旨い豆腐にはなかなか巡り合わないのである。
スーパーで売られているものは、「充填とうふ」「ソフトとうふ」なんてものばかりで、
昔ながらの豆腐はほとんどない。
たまに「天然にがりの自然製法」などというのを見かけて買い求めるのだが、
ただ固いだけの、豆腐というには難がある代物だったりする。
本物の豆腐であれば、口に含むと大豆の香りがして、
木綿豆腐でもまろやかな舌触りである。
そういうものを期待して色々試してみるが、ほとんどは、
朝、新聞を取ろうとドアを開けながら足を玄関に下ろした。
「爪先が冷たいな」と足元を見てみると、ドアに結露した水が下に溜まっていたのだ。
今までにこんなことは起こらなかったなあと、不思議に思いながらも、その日は出社したのである。
会社から帰宅後、いつものようにお風呂に給湯する。
そのとき、結露の理由が分かったのである。
湯船の水を抜くのを忘れていた。
何事も勝手には起こらない、必ず原因があるのだ(^_^);;。
「いつもの通り」に意外と落とし穴があることを実感した一日の終わりであった。
職場の合唱団においては、練習参加率がカギとなる。
学生時代から濃い合唱ライフを過ごしてきた人ならともかく、
就職してから合唱を始めたような人にとって、
摩訶不思議な用語を駆使して難しそうな曲を練習するのはきっと大変に違いない。
練習が面白くなければ練習参加率は低下し、
いつの間にか幽霊部員となってしまうだろう。
仮に本人の意欲はそれなりにあったとしても、
仕事が忙しくなれば合唱の優先順位は小さくなる訳で、
どうしても参加しなくなってしまうのだ。
縁あって現在参加しているところでも、でしゃばって練習指導をするようになったが、
いかに歌い手のテンションを上げて行くかが
練習がうまくいくかどうかの課題だと感じている。
さて、今日のタイトルの「合唱を楽しむ」こと。
色々な要素はあるが、
今日と明日の二日間、大学入試センターの「センター試験」が行われるということに、
名鉄の改札口付近に立っていたどっかの大学の職員の姿で気付いた。
自分が受けた頃の共通一次試験とは似て非なるものらしいが、
当事者にとっては同じようなものなのではないかと思ったりもする。
いつの時代でも「大変なこと」であるのは確かだろう。
当時から受験のためのテクニック云々と言われていたのだろうが、
塾通いの割合の上昇や受験科目数の減少を考えると、
勉強の本質よりはよりテクニック重視に傾いているのではないかと、
悲しく思ってしまう。
「勉強することの本質は」などと大上段に振りかざすほど自分が努力した訳でもないが、
面白がって勉強していたことは確かだ。
新しいことを学ぶこと、解決方法を発見することの楽しさを知ることこそが、
勉強の本質だと思うのだ。
塾でテクニックを丸暗記して受験に臨む、
いや、テクニックを使って機械的に問題を解くことによって、
勉強の本質――発見の面白さ――を知る機会を失うことが残念なのだ。
明石への新幹線の中で、そんな事を考えた一日であった。